春、なのに

ご無沙汰しております。

近頃は新型コロナウイルスの騒ぎで世界中が深刻な事態となってまいりました。皆様はお元気でお過ごしでしょうか。

私はというと、感染防止策で施設が閉まってしまって、保育園や個人レッスン以外の教室はお休みとなり、落ち着かぬ日々を過ごしています。

 

例年ならゆったりと花見をしたり、深まる春を感じさせるものに引き寄せられるようにふらふらと散歩し、時にそのただなかに佇んで春愁に耽ったりするのが、私の『春』なのですが、今年はどうにもそんな気分になれません。

いつだって桜の時期には特別な感慨があるものだったのに、どうにも鬱屈としたものが心を占有しているようで、桜に対してさえ、心を傾けることができませんでした。

桜の頃になると必ず思い出す歌に、

 

桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命(いのち)をかけてわが眺めたり   岡本かの子  

 

というものがあるのですが、今年は桜を前に気もそぞろで、ひどく申し訳ない気持ちでした。それと同時に思い出されるのは、

 

年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず     劉希夷 

 

という唐詩ですが、まったくその通り。この騒動で人間が右往左往する傍で、例年と変わらずに花が咲き、散り、新芽が萌えてゆくのは、当たり前のことなのに不思議な感じがします。

「ああ、人間って小さいんだなぁ」としみじみ思い、自然のたゆまぬ流れがいっそ無慈悲なものに感じられる一方、人間の本来の大きさというものがわかった気がしました。時にひとを置いて先を急ぐ季節を「こちらの気も知らず、無慈悲なものよ」と思いながら、それでも確かに廻ってゆく自然の姿に救われてもきたのが人というものなのではないか。そんなことを考えさせられる春です。

 

 

と、難しい話はそれくらいにして、絵の話でも。

今年はまた何か、自分なりの『桜』というものを掘り下げた絵を描きたかったのですが、そんな事情で桜のインプットがうまくいかなかったのでアウトプットも難しくなりそうです。

 

でもそんなときに助けになるものが、ふたつあります。

ひとつは、”誰かが表現した桜”。先の短歌もそうですが、誰かが既に表現してくれたものは、時に目の前の景色より鮮やかな印象を残してくれます。

私は気に入った詩や言葉などを書き溜めたノートを持っているのですが、あまりに桜の秀作が多いので、とうとう桜だけを集めたノートを作り始めたほどです。

それにしても、和歌・俳句・小説、音楽や踊りなど、さまざまな手段で表されたさまざまな『桜』がこの世に残されていること、これからも伝わっていくこと、そして新に生み出され続けていくことというのは、実に感慨深いものです。

 

そして、表現の助けになるもののもうひとつは、”これまで出会ってきた桜”。そう、自分にとっての『桜』なるもののイメージは、これまで出会ってきた無数の桜たちから生まれたものであり、それは記憶の断片、色、気配のようなものとなって、胸の中にしまわれています。

明るく陽光に輝く桜や花曇りに咲く無機質な姿、桜餅みたいな姿でほのぼのと揺れる八重桜や嘘っぽいほどくっきりと暗闇に浮かび上がる夜桜。幻のように舞う花びらと、案外がさついた木肌の感触……。

物心ついてから出会った、種類も時もバラバラな桜たちはとてもひとつになど纏まりようはなく、複雑で多面的なまま、私の中で曖昧な『桜』の像を結んでいます。

 

おそらくそれを自分の制作のために、無意識ながら着々とストックしてしまうのが絵描きの習性なのですが、絵描きでなくてもきっと多かれ少なかれ、誰もその人ならではの『桜』が胸にあるのだろう、と思います。

その『誰かの桜』は見せてもらえるものならそっと見せてもらいたいものですし、私は『私の桜』だってもちろん見たいです。

そういう動機があって、絵を描いているようなものなのですが、桜は特に難しく感じます。現実的な桜の風景から描き始めますが、深みから汲み出して来たいのはもっと幻想的で抽象的な桜なので、どこかで現実を離れなくてはなりません。そこで上手くいけばひどく美しいものを見ることができそうで、でもなかなかそこまで行けない、というのがこれまでの挑戦の結果です。

 

いつか、これだと言う桜が描けるでしょうか。