散歩と、魔法の眼

水彩で描いたアケビ
水彩で描いたアケビ

わりと田舎の方に住んでいるので、家からちょっと足を延ばすと里山に出ます。最近はあまり行けていませんが、以前はしょっちゅう散歩に出かけていました。

 

今では低い山になっているところが大昔の海辺で、田んぼになっているところが海だったのだそうで、古い地層が露出しているところには貝の化石の層も見られます。子供の頃には夏休みの自由研究で貝の化石を集めたりもしました。

田んぼの畔をたどりながら、「今歩いているこの道は、海の中だったのね」と、当時の光景を想像してみるのもロマンがあります。

 

でも、植物に関してちょっとマニアックな人間はみんなそうだと思うのですが、散歩はただの散歩にはなりません。藪でも畔の雑草でもなんでも、そこらじゅうの植物の観察となってしまうのです。「変わった植物はないか?」「これは季節外れだな」「お、むかご!」などなど、歩くペースで目まぐるしく観察が続きます。

しかも、この観察は「さあ観察を始めよう!」というふうには始まらず、植物が目に入った瞬間から無意識に始まります。しかも、風景の一部として目に映っただけでも自動的にこの機能が働くうえ、どうやら自分でスイッチをオフにできないようなのです。

 

たまに「なぜ、近寄らなくても一目で何の花かわかるんですか?」と訊かれることがありますが、おそらくこういう人間たちは、植物にだけピント(あるいはチャンネル?)が合っている眼を持っているのではないかと思います。もちろん知らない植物もまだまだたくさんあるのですが、知っている植物に関してなら、たとえその木の特徴となるような姿(例えば花が咲いているとか)でなくても、「あれは何の木?」と考えるまでもなく見た瞬間にわかります。

なんて言うと、なんだかすごい魔法の眼(!)のようですが、人混みの中でも知人の姿だけはパッと目に飛び込んでくるだとか、またその人が何を着ていてもそれが誰か見分けられる、というのと変わらないように思います。

ちなみに私はと言うと、人間の顔と名前を覚えるのがどうにも苦手で、いっそ植物を覚える方が早かったりします。これは何かの代償なのでしょうか??

 

さて、そんな観察をしながら里山を散歩をしていると、どこにどんな植物があったか、頭の中に植物の地図がなんとなく出来てきます。特に食べられる植物やきれいな実がなるものなどは覚えやすいものなのですが、たまに「え、ここにこの植物があったの?」とびっくりさせられることも。先日はそこにアケビがあることを見落としていたのですが、高いところにあったにも関わらず、実だけはちゃんと見つけました。食い意地でしょうか。

 

すでに割れて、中の種がのぞいているアケビの実は、「まさに今が描くチャンスよ」と言っているかのよう。とはいえ、植物画として描くほどの時間がなかったので、今回は軽くはがきサイズの水彩にしました。

植物画でないので、アケビの実の紫も少し強調して、影もウルトラマリンブルーでちょっと洒落た感じにしてみました。背景も白無地ではなく、淡くイエローやオレンジをのせて秋の黄みがかった光をイメージ。秋の絵にこういう色を利かせる描き方がこのごろ気に入っています。

 

同じ日に見つけた渋柿(こちらは里山ではなく、空き地の端に勝手に生えたようなもの)はふたつだけ採って、家で干し柿にしました。

もう寒さも増してきて、里山でも収穫できるものは少なくなってきましたが、今度は部屋にちょっと飾れるような赤い実でも探しに行きたいなと思っています。

コメントをお書きください

コメント: 2
  • #1

    ボッコちゃん (土曜日, 04 1月 2020 16:23)

    人間の顔や名前を覚えるのが苦手で植物の名前はすぐ覚えられるとは面白いです。私と反対です。奈々さんにとって人間より植物との距離感が近いのでしょうか?人間の名前は人間がつけますが植物の名前は植物がつけたわけではないので可哀想な名前もありますね。「ヘクソカズラ」とか「ままこの尻拭い」とか。変えてあげたいわ。

  • #2

    凹太 (日曜日, 05 1月 2020 04:17)

    人の顔と名前は覚えられないが、植物の名前は大丈夫なんて変な人が他にもいたんだ。特に海外では顔も同じように見えるし、名前は長くて学名みたいで、非常に大変。 アケビのあの淡い青紫は懐かしいです。食べてみましたか。食べられるところは少しで甘みも穏やかですが、秋の味覚です。試しに皮をかじったことがありますが苦かった。どこだか忘れてしまいましたが、料亭でアケビの皮にひき肉が入った料理がありました。それはおいしくいただきました。