長崎への旅(5)

長崎と言えば南蛮貿易がすぐに思い浮かびます。はじめは出島へも行く予定だったのですが、ガイドブックの中でも出島はハウステンボスなどに押されて小さく載っているだけでしたし、実際に長崎に着くと見るべき場所がたくさんあって後回しになってしまいました。最後の一日にどこを見ようかと思案したときには、疲れているし、もう出島もやめてゆっくりと街歩きでもする方に気持ちが傾きかけていましたが、その時はっと思い出したのです。小学校の高学年か中学生だったか、社会科の授業で出島について教わった時、「わぁ、そんなところが長崎にあったんだ!そこだけ外国風だったのかな。どんな感じだったんだろう」と想像をめぐらせてわくわくし、「長崎は遠いけど、大人になったら行けるかも。行ったら出島を見てこよう!」と確かに思ったことを。

すっかり忘れていたけれど、もしかしたら今回の旅の行き先に長崎を選んだのも、頭のどこかにそれが引っかかっていたのかもしれません。

疲れていようがなんだろうが、私はいま長崎にやってきていて、あと一日暇がある。そして何より、「出島に行きたい!」と願う子供のころの私を思い出してしまったからには、行ってやらないわけにはいきません。行かなかったら純真なあの子の気持ちを裏切ることになるし、私が廃(すた)る!!……ということで、この日はまず出島へ行くことにしました。

 

 

出島はご存知の通り、南蛮貿易のために造られた人工島で、扇の形をしています。初めはポルトガルとの貿易を目的としていましたが、出島ができた翌年に島原・天草一揆があり、その2年後にはポルトガル船の来航が禁止となったため、以後幕末まではオランダ商館が置かれ、ヨーロッパとの唯一の貿易拠点として使われました。しかし通商条約が整って横浜や函館などでも貿易が始まり、また長崎でも拠点が外国人居留地に移っていったこともあり、出島はその役目を終え、周囲の埋め立てによって陸続きになっていったとか。

 

戦後になって出島を復元する計画が持ち上がり、市が長い年月をかけて発掘や文献の調査をして、どこにどんな建物があったのか、どんな工法でどんな建材を使って建てられていたか、何に使われていたのかなどを調べました。当時に描かれた出島の絵や数少ない写真も重要な資料となり、なるべく当時のままに、どうしてもわからない部分は出来る限り根拠のある予想図を作って補い、もう使われていない工法や建材は職人たちを巻き込んで復元してもらったりしたのだそうです。

今ではまた川に囲まれて、ほぼ扇形を取り戻し、中の建物もほとんどが再建されています。スタッフまでが役人の格好をして、雰囲気づくりに一役買っていました。

 

当時は遊女以外の女性は島に入れませんでしたが、今は入場料さえ払えばだれにもとがめられません。

中に入ると、日本家屋がずらりと並んでいますが、和洋折衷な印象の建物もいくつかあります。一階は倉庫、二階は住居となっていて、倉庫は主に土間ですが、住居は畳敷きに椅子やテーブルが置かれ、土足で出入りしていたとか。

 

積み荷は役人の立ち合い(監視)のもと、秤で計って目録を作り、倉に保管されました。台湾やインドネシアからの砂糖も大量に輸入されていたようです。砂糖はもちろん高級品でしたが、日本のほかの地域に比べると早く民間にも浸透したのではないかなと想像します。長崎の名物のカステラも砂糖をたっぷり使いますし、お料理の味付けも甘めなのは出島からの砂糖があってこそではないでしょうか。(戦国時代は角砂糖2~3個くらいの砂糖で小さな山城が買えたという話を聞いたことがありますが、この時代ではさすがにそこまでではないでしょう)

ほかにもインドの更紗、イギリスの陶器、マレーシアの錫、インドネシアからは丁子(クローブ)などの香辛料が運び込まれました。日本からは銅が主な輸出品で、銅を検め、保管した倉も復元されていました。

他にも、発掘中に出てきた大量の陶磁器や日用品をはじめ、人気の輸出品だった日本の焼き物の展示や、長崎が学問の最先端だったことを感じさせる顕微鏡や実験器具、エレキテルなどの展示もありました。

 

普通の商館員の部屋は簡素で、畳敷きに障子、漆喰の壁という内装です。ベッド、水差しが置かれたナイトテーブル、お酒の瓶や日用品が載った棚、長持、イスぐらいの家具しかなくこざっぱりしています。

壁に金属製や陶製の深皿のようなものがかけてあるのですが、何に使うものか想像が付きませんでした。説明によると髭剃り用の道具だそうで、よだれかけのように、丸くくりぬかれた部分に首をあてて使うのだとか。(これを見ただけで用途を当てられる人がいたら尊敬します)

また、ベッドにはその半分を占拠する大きなクッションが置かれていましたが、当時は体を平らに横たえず、クッションにもたれて座るような恰好で眠っていたと知って驚きました。現代ならリクライニングチェアで寝るような感覚でしょうか。

 

カピタンの部屋は外から見てもわかる広さと豪華さです。建物を通らず直接二階に上がれる屋根付きの階段でカピタンの部屋へ。カピタンの住居ともなると、執務や応接・接待のための部屋もつき、広々としています。壁と天井には特注らしい洋風の唐紙が張られ、黒ずんだ柱さえ洋風に見えてきます。ピンクの唐紙の壁に青緑の扉。カラフルな内装にシャンデリアがきらめくこの部屋は、招かれた日本人をさぞ驚かせたことでしょう。10人はかけられそうな大きなテーブルにはクリスマスの晩餐が再現してあります。こんな料理を日本人もまじえて囲んだのでしょうか。

ちなみに出島を出入りしていた役人や阿蘭陀通詞(通訳)たちは、出された西洋料理にあまり手をつけず、包んで持ち帰り、家族や部下たちと一緒に食べて、バターなどは薬としていたとか。お茶の席でも食べきれないお菓子を持ち帰ってもいいことになっている日本と違って、西洋のマナーでは食べ物を持ち帰ってはいけないのかもしれませんが、そうして異国のものを持ち帰って分け合って楽しむ姿はなんだかほほえましい気もします。

 

出島の敷地内には、倉庫や住居だけでなく、豚や牛を飼う小屋や菜園、庭園もありました。

ほかにも、明治期に建てられたという社交場(現在はレストラン)や、淡い水色に塗られた神学校があります。神学校は中に入れませんが、現存する日本最古のプロテスタントの神学校だそう。こんなにせまい島でも宗教施設と庭園は欠かさないのだなと感心します。

 

すみずみまで展示を見ながら建物を回っていると、午後になってしまいました。まだ出来上がっていない建物もあるとはいえ、ほとんどの建物が復元し、内部も展示がされているので、予想以上に見るところがたくさんありました。外に出ると「こんな小さな島に何時間もいたのか」と驚くほどです。

近くのカフェで神学校の建物を窓から眺めつつ、ケーキセットを頼んで一息。それからまだ長崎に来て一度も乗っていなかった路面電車に乗って平和記念公園へ向かいます。

 

本当は午後いっぱい平和記念公園で資料館を見学するつもりでいたのですが、予定外の出島での長居が響いてしまいました。資料館を見る時間が取れそうになく、すでにあたりは黄昏てきています。原爆資料館は広島に行ったときに広島の資料館をじっくりと見学してきたので、今回の旅では寄れないことを許してもらって、今度来た時には必ず寄ろうと決めました。そして平和記念公園をゆっくり歩き、平和祈念像や爆心地の碑を回り、平和への祈りを捧げてきました。

 

帰り道、まだ重苦しく悲しい気持ちを抱えたまま、帰宅ラッシュの路面電車に揺られながら、長崎駅を目指します。街はにぎやかで、あちこちで灯りがともり始め、信号が変わればたくさんの人が道路を行きかいます。これから夜の街に繰り出す人、家へ帰ろうとする人。ほかのどことも同じ、ふつうの街の夜。それでも、どんな苦しみと悲しみを乗り越えて、ここまで復興してきたのだろうと考えずにはいられません。改めて、今度来た時には必ず、資料館もじっくりと見学することを誓いました。

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コメント: 2
  • #1

    ボッコちゃん (水曜日, 12 4月 2017 22:33)

    出島でゴッホの椅子に出会うなんて面白いですね。簡素な商館員の部屋も私は好きです。外国人が日本の古民家に住んでいる写真を見ると家具の配置や照明の使い方など素敵で関心してしまいます。こちらは南米ですがスペインの植民地だったので日本人が考えているよりヨーロッパの文化が浸透しています。引っ越しした時スペイン語の家庭教師に家具の配置を直されました(笑)。

  • #2

    Nana (月曜日, 28 8月 2017 00:50)

    ボッコちゃん>>外国人が古民家で暮らしているのって、なんともいえない異国感がでていて面白いですよね。思いがけない使い道をしている場合もあるし、本人が純和風にしているつもりでもどこか違うし。たぶん、日本人が海外のものだけを使ってインテリアを考えても、どこか日本的になるのでしょう。