長崎への旅(4)

ここのところ忙しくてなかなか更新できず、お待たせしております。もう少し長崎のお話が続く予定ですので、よろしくお付き合いくださいませ!

 

九州は焼き物が盛んなので、いつか九州に行ったらどこか訪ねてみたいものだと、常々思っておりました。長崎から足を伸ばせるところにも伊万里、有田、波佐見など焼き物の里があります。

せっかく長崎にいるなら、ひとつくらいは訪ねなければもったいないと思い、有田に行ってきました。本当は伊万里焼の方が好きなのですが、長崎市内から行くと有田まで2時間、伊万里へは乗り換えてさらに行かねばならないとわかり、今回はあきらめました。

 

東京から長崎はさすがに遠いので空路で来ましたが、あっという間に着いてしまうので旅情を味わうには物足りなく感じました。それにひきかえ、電車の旅は楽しいものです。林や川を避け、あるときは田畑や野山、集落を突っ切りながら伸びる線路をゆく。にぎやかな町やひなびた里、枯れた田んぼと低い山々、どこか懐かしいような古い農家……。

飛行機のような俯瞰の視点ではなく、ちゃんと地続きに『日常』の目の高さを保って、その土地を感じながら移動していくことができます。歩くのとは違って細部はあまり見えず、今見えたものが何かさえ確かめられないのは少しもどかしく感じることもありますが。

でも本当は、「旅は馬で行くのが一番なのではないか?」と、ときどき思います。歩くより楽で距離も稼げるうえ、何か気になったら立ち止まれるし、車や自転車より視点が高く、あたりを見渡したり、未知のものがないか探したりするのにはうってつけです。それに、単調な道でも生きた道連れ(馬)がいる方がきっと楽しいはず。馬は人間と違って話はできないけれど、乗り手と同調しつつもいい距離感で放っておいてくれることは、内モンゴルで馬に乗って旅した時によくわかりました。

江戸時代でも馬に乗って旅をするのは身分やお金のある人か、火急の用がある場合であったようですから、そう多くはないはず。今ならなおのこと目立ってしまって困るし、馬を預けられる宿もなければ、替えの馬の用意もないでしょうけれど、やはり馬で行く旅にはロマンがあります。その土地の歌を教えてもらって一緒に歌いながらのんびり行くのはいいものです。

 

そんな空想を広げておきながら馬をもたない私は、 長崎駅から電車に乗りました。土曜の午前中なのに、車内はがらがら。旅のお供と決めているアーモンドチョコレート(ただし旅先が海外のときはミントチョコレートになる)をリュックにしのばせ、ときどきこっそり口に含みながら、車窓から外の風景を眺めます。

私は植物が好きなので、どこに何が生えているかを無意識に観察する癖があります。目に入った植物の名前をひとつずつ確認したりはしないものの、なんとなくアンテナは張ってあり、見慣れない植物があるとすぐに気が付くという感じでしょうか。長崎はやはり暖かいので、植えてある植物も関東より熱帯性のものが多く、街中に植えられている中にも関東では見慣れない植物がいくつもありました。車窓からも、まだ青々としているミョウガの葉や花が残っているアサガオを見つけ、「ああ、ここは本当に暖かいのだなぁ」と思いました。

また、民家の庭を見ていて気が付くのは、柿の木が少ないことでしょうか。関東は柿の表年で、どこでもたわわに実っていたのに、長崎では柿の木は数えるほどしか見かけず、姿もひよわそうでした。「柿の木はあるのに、私が見逃しているだけかも」とはじめは思いましたが、柿の木ならば枯れ木でも枝ぶりなどで「柿」とわかるはず。やはり柿の木自体が少ないと思っていいのではないかと考え直しました。逆に多かったのは、柑橘類や枇杷でしょうか。暖かい気候を生かして庭に植えるなら柑橘が合っているのかもしれません。そういえば、長崎にはザボンの皮を砂糖漬けにした、有名なお菓子もありました。

 

風景が単調なところでは本(こちらにきてから古本屋で購入)を読んだり、ぼんやりしたり。諫早湾の横を線路がカーブしながら通っていくところでは、わくわくしながら水面にキラキラと日の光が踊るのを眺めます。途中駅で2両ほどの電車に乗り換え、ようやく有田へ。

観光案内所で街の地図をもらい、いざ!焼き物のお店が集まっている方へ向かう途中、いくつか橋を渡りましたが、川の水がとても澄んでいて綺麗なこと!よく見ると川底には陶片がたくさん沈んでいます。失敗作を投げ入れたのでしょうか。それにしてもなんて綺麗な水。やはりこの水が焼き物の発展に一役かったのでしょうか。

 

お店の並ぶ通りに着きましたが……どうしたことか、にぎわいそうな土曜日を選んで来たというのにひどく閑散としています。にぎわっていれば店主と一対一でやりとりせずとも、さりげなくお店を見せてもらったりできると思ったのに、あてが外れました。どこも空いていて、通行人はひどく目立ちます。店先に出ている小物を見ていると、すかさず店主が出てきて「寒いでしょうから」「お茶を飲んでいって」とたくみに店の中へ連れ込まれてしまいました。よほど暇なようで、「買わなくていいから」と世間話につきあっているうちに、有田焼400年を記念した大イベントが先日まであったため、今は休業中のお店が多いしお客も少ないのだということがわかりました。どうやら買い物にはあまりいいタイミングではなかったようです。

行く先々でお茶を出されてしまい(断る間もなく用意されてしまうのです)、かといって全部のお店で何か買うわけにもいかないのでなるべく丁寧にお礼を言ってありがたく頂き、さわやかに挨拶して退出というのを繰り返しながら、少しずつ有田の街を進みます。少し気疲れはしますが、寒い日だったので熱いお茶はありがたいですし、買ってくれるかどうかではなく、旅人をあたたかくもてなそうとする心が感じられたのは嬉しかったです。

 

しかし、某窯元ではちょっと困りました。ご主人が「高級なわりに厚手だから普段使いに向いているし、むしろ普段にこそ、こういういいものを使ってほしい」「きっと使うほどこの良さがわかるはず。何年も毎日使えるならば安いものだ」などと熱心に勧めてくるのです。品質に絶対の自信があり、焼き物を愛しているのもよくわかるのですが、まるで畳みかけてくるかのような売り込みには参りました。

たしかに端正で品が良い造形で、手にも馴染む質感と形、普段使いに耐える程よい厚みと確かさがあります。その良さはよくわかりますし、ごもっともな意見だとも思うのですが、だから買えばいいという問題ではないはずです。

湯飲みでも八千円くらいするようなお店ですし、私がいいなと思ったお皿は、多彩色の更紗のような絵付けで、凝っているだけにお値段も高くてとても手が届かない代物でした。(もしどうしてもこれを手に入れたいと思うほど魅せられたのなら、清水の舞台から飛び降りることもありましょうが、そんなことはなかなか起きるものではありませんし、起きたら困ります。)ご主人がこの価格帯ならどうかと勧めてくれる湯飲みやお茶碗は絵付けが好みでなく、やんわり断りましたが、あきらめてくれません。こんないいものがここにあり、その良さがわかるうえ手が届く値段なのに買わないなんて理解に苦しむとでも思っているご様子。

でも、1万円ちょっとのお茶碗を勧められたとき、「ひとりだけ家族の誰よりも高いお茶碗になってしまう」と言ったら、真顔で「そういう方はよくいらっしゃいますよ。どうせ良いものなんかわからないから、旦那さんのお茶碗は500円の安物にして、奥さんは自分の好きなのを使うんです」と答えが返ってきたのはおかしかったです。

 

その後もぶらぶらと通りを歩き、古民家の中を公開しているところに寄って店番のおばさまたちにお茶と金柑入りのケーキをごちそうになったり、友人へのおみやげに箸置きなどの小物や、自分用に飴釉の小皿を少し買ったりしました。閉まっているお店がけっこうあったのが残念でしたが、今度はもっといい時期に、できればレンタカーで来たいと思いました。見どころが離れていたりもするし、レンタカーがあれば波佐見や伊万里へ足を伸ばすこともできそうです。

 

有田駅に戻ってきたら、電車が行ったばかり。本もあるから平気と、あまり時間を気にしていませんでしたが、次の電車まで一時間もありました。やはり地方に来たときは電車の時間は先にチェックしておくべきでした。

仕方がないので駅前の喫茶店に入ってみることに。年配の女性がひとりで店番をしているお店で、木やレンガを使ったレトロな内装です。かなり古そうで、テーブルや椅子の足が少しがたついたりしてはいますが、きっと昔はモダンな建物だったのだろうなと思わせるようなお店でした。旅先でふらりと地元のお店に入るのはやはりちょっとした冒険で面白いものです。

 

やっと来た電車に乗り長崎へ着くと、もうすっかり辺りは暗く、寒くなっていました。「温かいものが食べたい。そうだ、まだちゃんぽんを食べていないじゃない!」と思い出し、ガイドブックに載っていた港のすぐそばの有名店に行ってみました。

『一人でも入りやすい』とも書いてあった気がしますが、なんせ土曜の夜。家族連れや学生の打ち上げなどでにぎわっているところに一人で乗り込んでちゃんぽんを食べるなんて、超のつく“アウェー”。もちろん駅ビルのチェーン店の方がハードルは低いはず。でも私はこういうとき、どちらの方が“非日常”か、“冒険”か、”いつもの私からより遠い”か、という選択の仕方をするのが結構好きなようです。

端の方でちまちまと(すごく熱いので)ちゃんぽんを食べている私は、おそらく浮いているか、目立たなすぎて誰の目にも留まっていなかったかのどちらかだったでしょうが、そういうことはつとめて忘れ、魚介も野菜もたっぷり入ったちゃんぽんを堪能。豚骨と魚介の出汁を合わせたようなお味でした。

そういえば、指の先ほどの、ごく小さいのに濃厚で美味しい牡蠣が入っていたのですが、あれはそこらのテトラポットか何かからお店の人が採ったのでしょうか?もしそうでもおかしくないくらい、長崎港のあたりには手に届くところにたくさん貝がいるのですが。(まさか、ね)

 

すっかり温まったので、少し夜の港を散歩しました。お店の灯りや小型船を派手に彩るカラフルな電飾が、夜の黒い海に反射しています。さざ波のせいで、印象派の筆遣いのようにも見えるその光をしばし眺め、それから美術館が8時までだと思い出し、外の階段を上って美術館の屋上庭園へ。ライトアップされた階段はなんだか現実味がなくて、実は自分は夢の中を歩いているのではないかと疑ったほどでした。

屋上から街の灯りを眺めていると、こんなところにこんな時間に、だれにも知られずひとりいるなんて、となんだか妙な気分になってきます。孤独(いい意味で)と爽快を同時に覚え、それでいて、ひどくせいせいとするような。

 

ひとしきりぼーっとして、閉館時間が近づいてからまた階段を下り、歩き出します。旅に出ると、毎日足を棒のようにしてしまう自分に少し呆れ、今度から旅の荷物には湿布も入れるべきだろうかと考えながら、ホテルへと帰りました。

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コメント: 3
  • #1

    ボッコちゃん (火曜日, 21 3月 2017 11:41)

    安野光雅の「旅の絵本」も馬で旅していたね。馬で旅。出来たら良いな。

  • #2

    凹太 (火曜日, 28 3月 2017 02:58)

    知らない町を歩き、店を覗いたりするのはわくわくする体験です。今まで見たことの無い何かや自分の知っているものと違う何かを見つけるとうれしくなります。鳥居と電車は珍しくないですが、こんなに近いと写真を撮りたくなります。鳥居も太いし。続きが楽しみです。

  • #3

    Nana (月曜日, 28 8月 2017 00:47)

    ボッコちゃん>>「旅の絵本」は大好きです。知識が増えれば増えるほど、本に隠されたものを見つけられるところがにくいですよね。馬での旅も憧れました。
    凹太さん>>鳥居と電車、それぞれは珍しくないけど、一緒に写った写真なんてそんなにあるかしら?この神社に来ればきっとみんな撮りたくもなるけど。石でなく、呉須の絵付けの焼き物でいろんなものが作られているのも奇妙な光景でした。