御慶

明けましておめでとうございます。

 

長崎の話を終えてから、新年のご挨拶といきたかったのですが、終わらないまま新年を迎えてしまいました。清々しい新年をすっきりと迎えられないのは、いけませんね。大掃除が終わっていないのもいけません。

 

そんなせいもあるのか、いまひとっつ、新年を迎えたという実感が乏しいようでもありまして。そもそも年明けの瞬間も、大晦日だというのにテレビもつけず、紅白の結果どころか、世間様がカウントダウンで盛り上がっているのさえ知らずに、黙々とおせち料理をこしらえていて、ふと時計を見たら0時2分を回ったところだった、という始末で、なんとも締まりがございません。

 

そういえば年末の買い物でも、伊達巻を作るのに必要なはんぺんと、肝心要の鏡餅とを買い忘れました。なんで鏡餅が肝心要かと申しますと、別にあれが棚の上にどーんと飾られていないと風景が寂しい、というわけではございません。鏡餅というのは、依り代なのだそうですね。年神様、つまり農耕や豊穣を司る神様が山から下りていらして、家々の鏡餅にお宿りになる。そしておせちを家の者たちと一緒に召し上がるのだそうです。祝箸は両側が同じ形をしておりますけれども、我々がせっせと黒豆だの蒲鉾だのを口に運んでいるとき、実は箸の反対側を年神様がお使いになって、我々とご一緒にご馳走を召し上がっているといいます。だから、間違っても取り箸がわりに上下をひっくり返して使ったりしてはいけません!ひとが食べているっていうのに、突然その箸をひったくるなんて、どう考えても無礼でしょう。神様のお箸なら、なおさらです。

 

いまでこそ、神道のお供え物、神饌(しんせん)は米や野菜を生のままお供えすることが多いようですが、昔は料理したものをお供えすることが多かったそうです。お供えして祈祷が済んだら、それを村人みなで食べる。つまり神様のお食事のご相伴にあずかることで、神様との一体感を得るとともに、神様の力の宿ったありがたい食べ物を自分たちもいただくというのが、古式ゆかしき神饌の形だったといいます。

 

まあ、今はどの宗教もいろんな意味で少しゆったりしてまいりましたし、別に「鏡餅」という依り代がなくたって、年神さまはきっと臨機応変にそこらのお正月飾りでもほかのおせち料理でも、何か見繕って宿ってくださるだろうとは思わないでもないのでございますが、もしも「はん、甘く見られたものだ。鏡餅も供える気がない家になど、寄ってやる義理もなかろう。あとから頼まれたって願い下げである」なんてことになったら、我が家は今年一年を神様のご加護なく過ごさねばならなくなってしまいます。無くても大丈夫なのではないかと思っていても、本当に大丈夫なのかわからないので、不安にもなろうというものです。なにしろ、神様は目に見えるものではないので、お宿りなのかそうでないのかさえ、私どもには判断いたしかねます。

なので、遅まきながらも三が日のうちにはちゃんと鏡餅を入手してまいりまして、昆布などとともにご三方に飾っておかなければと思っております。

『一年の計は元旦にあり』などと言いますが、初めからこんな調子で大丈夫かと少し危ぶまれます。なんともまぁ、情けないことです。

でも、そうやってあれこれ考えすぎて右往左往しながら生きていくのが人間というものかもしれません。どうせ同じことなら、心持ちだけでも楽しく生きるほうが、なんぼかよろしいことでしょう。

そんなわけで、この一年も面白おかしくやってゆきたいと存じます。どうぞ、よろしくお付き合いのほどを。

 

 

と、ここまで落語の枕のように書いてみました。タイトルの『御慶』も、実は落語のタイトルから取りました。いつもと違って妙な文体だと思われた方も多かったかと思いますが、”ご清聴”ありがとうございました!

もっと本格的な落語風にするなら、「明けましておめでとうございます」のあとに「えー、本日はお運びいただきまして。」が必要ですし、ほかにもところどころに「えー、」を入れて、江戸弁も織り交ぜれば完璧です。「というと」は「ってぇいうと」、「なんて」は「なんてぇ」、ときどきは噺家らしく「だそうです。」ではなく「だそうですな。」と言う箇所があってもしっくりきそうです。効果音やオノマトペも入れると、さらに躍動感が出ますね。

たまに落語のCDを聞いておりますと、声の調子は何でもないのに客席から笑いが起こったりしていることがありますが、あれもきっと噺家の身振り手振りや顔の表情などになにか面白いものがあったのでしょう。上の文章の場合でも、カウントダウンの下りでは身振りで大げさに、盛り上がっている人々の真似でもすると笑いが取れそうです。「甘く見られた」の下りでは、いっそ神様というより武家のような口調が合いそうですね。うーん、想像するだけでもかなり楽しそう。

 

北村薫の小説で落語家が活躍するシリーズがあり、そのシリーズを読んでいた高校生のころから落語に興味がありましたが、ちゃんと聞くようになったのは去年からです。テレビのバラエティやお笑いはまったく面白いと思えない私でも、落語では自然に笑うことができます。ひとりでニヤニヤしたり吹き出したりしながらCDを聞いたり、また寄席にも2度ほど出かけ、生の落語を楽しんでまいりました。

しかしながら、あまりにも多くの噺があり、また噺家もたくさんいらして、しかも本人は他界されてもすばらしい録音が残っていたりもしますし、どれを聞けばいいか見極められないほどです。そのうえ、落語がお好きな方というのも意外と身近にいらっしゃるもので、それぞれいろいろとおすすめやご贔屓をお持ちだったりするのですから大変です。まともに追いかけようとしたら、日がな一日、落語ばかり聞いても間に合わなそうですし。

でも少しずつ聞いて、お気に入りを増やしながら、日々をちょっとばかり楽しくしていけたらいいなと思っている次第です。

皆様にとっても、この一年がすこしでも楽しく充実したものになりますようお祈り申し上げます。

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コメント: 3
  • #1

    ボッコちゃん (月曜日, 02 1月 2017 22:19)

    謹賀新年

    私も日記帳の初めに「楽しく暮らす」と書いております。異国にて望郷の念も時々顔を出します。そういう時そうだ私は毎日を楽しく暮らすと決めたんだったと思い出して気持ちをリセットします。まずはコーヒーを丁寧にいれて窓から見えるアンデス山脈を眺めればここの生活もまんざらではないわと思えてきます。

  • #2

    凹太 (月曜日, 09 1月 2017 01:53)

    明けましておめでとうございます。なんで落語調なんだろうと思いましたが、だいぶ影響されているようですね。おせちのように行事の時の特別な料理はなぜかワクワクします。こちらでもクリスマスの料理があります。ブニュエロス(ボールのようなパン)、タマレス(鶏肉、ニンジンなどをトウモロコシ粉でこね合わせバナナの葉で包んで煮たもの)、サンコチョ(牛肉、数種のジャガイモなどが入ったスープ)、ナティージャ(デザート)です。でもすごいのは親戚一同が集まり2時3時まで飲んで食べて踊って話しまくり過ごすのです。これは年越しも同様です。家族の団結の強さはこうして生まれたものなのだと思います。良いことはマネしよう。

  • #3

    nana (日曜日, 19 3月 2017 20:49)

    ボッコちゃん: 「楽しく暮らす」とはいい目標ですね!実はいうと私も手帳の一番初めには目標を書きますが、今年の目標のひとつは「いつでも人生を愉しむこと!」です。 私は当然ながらホームシックにはなりませんが、落ち込んだ時はちょっと凝った料理をしたりお菓子を焼いたり、読書で現実とかけ離れた世界を旅したりすると元気になります。

    凹太さん: 時代小説を読むとしばらく武家言葉が口をついたりするほど影響されやすい人間なものですから、落語をたて続けに聞いたあとは落語調で語ってみたくなったというだけで、深い意味はありません。まあたまにはお付き合いください。 そういえば、そちらには年越しの鐘に合わせてぶどうを12粒食べるというのもありましたよね。人間って妙な習わしを考え付く面白い動物ですよねぇ。