どこぞの爺さんみたく灰は蒔きませんが、花を描きに描いてどんどん咲かせていきます。
桜の花が咲く枝を、ただ白い塊のようには描きたくなくて点描を使ったのですが、時間ばかりかかり、調整は難しくてままならず。
また、日本画の絵の具は、乾いてみないと、今塗った色がどの程度発色しているのかわかりません。特に白い色はわかりづらいので、今回も悪戦苦闘を強いられました。
進めるうちに、この方法で良かったのかわからなくなってきましたが、引き返せるものでもありません。腹を決めるほか、道はなし。
上部の花を描きながら、下の空間に大きな仕事を重ねて空気感を作る。前に引き出したい花の塊や、少し散りかかる花びらも描いて。
締切さえなければ、もう1週間くらい描いていたかったけれども、ここまでとなりました。
なんだかこの絵は描きこもうと思えばいくらでも描きこんでいける絵なので、正直終わりがないような気がしますが、一応ここまで。
筆をおいて眺めて、「んー…」とうなりながら考えます。
わりと綺麗にまとまっているけど、もう少し幻想を入れたかったし、緊張感も欲しい。
なにより、まだ私の思うところを描ききれてはいない。
が、そもそも私が心に抱いているあの”桜”を描くだけの腕が私にあるのか?器が小さい?
いやいや、そもそもあれは画面に表現できるものなのか?
ちょっと考えるのに疲れて、そのあたりの疑問をうっちゃることに。
冷静に単純に考えると、もとは自分で撮った一枚の写真です。桜の綺麗なところを求めて、春愁を抱えながらあちこちをうろうろと歩き回っていた頃に見つけた場所でした。
花は雨風によって大半がすで散ってしまっていたし、雰囲気はあったけどそんなに美しかったというほどでもない場所。
それをここまで嘘八百、まるで別の場所のように描いてしまうとは。
私も、真性の嘘つきですね。 あるいは一種の幻視者とか?
でもそれならもっとこの絵の中に、まほろばを醸してみたかった気がします。
手の仕事量としては悪くないけど、精神的な仕事としてはまだ足りていないような。
一応は完成としたものの、時間を空けて、また手を入れ始めてしまいそうです。
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ボッコちゃん (木曜日, 04 7月 2013 23:33)
絵を描き上げて終わりにするのは作者の意志によるものだけど、以前マティスの明らかに途中としか思えない絵を見ました。きっちり描く画家ではないけど、気分が乗らず投げやりな感じで後は保留にしょうと本人は思っていたのではないかと思われる絵でした。(私の勝手な思い込み。これでいつも注意されますね)他のはサインも入っていたけど、サインも無し。巨匠だと何でもいいのか?と素人の私はがっかりでしたが、見る人が見ると何かあるのかも知れません。展覧会に行くと皆言いたい放題言ってますね。驚くような発言の数々。特におば様。私もこれからは気を付けますわ。
nana (日曜日, 07 7月 2013 12:20)
ボッコちゃん:
あきらかに完成してない絵、たまに見かけますよね。マティスは多いかも。後世の人が勝手に流通させてしまうのでしょうか?絵はクロスワードのように、画面を全部埋めたら完成するわけではありませんが、見事にすかんと抜けてたり、迷って保留したらしい絵が、仰々しく金ぴかの額に入れられているのを見ると、おかしいような、かわいそうなような…。
絵を見て何を感じるかは、もちろん自由でいいはずですが、展覧会でのおばさまたちの中には、私をさかさにして振っても出てこないような珍妙な作品解釈をするツワモノもいて、たまにびっくりさせられます。必死に笑いをこらえることもあるし、開いた口がふさがらないことも。
でもボッコちゃんと一緒に美術館に行くときは、いろいろ言っているのはいつだって私の方だったわ、きっと。