「月が綺麗ですね」

或る月の綺麗な晩。鉛筆デッサン
或る月の綺麗な晩。鉛筆デッサン

ひと月ばかり前、とても月の綺麗な晩があり、部屋の明かりを消して見入っていました。

澄んだ夜空に月がよく映えていて、しみじみと秋の訪れを感じました。そして中秋の名月も、と楽しみにしていたのですが、当日は台風。これはもう、お月見どころではないとあきらめていました。しかし雨は思ったより降らず、夜半には風が暴れているばかり。雲は多いけれど、これだけ風が強ければもしかしたらと夜空を見上げると、吹き飛ばされた雲の間に燦然と月が輝いていました。鏡のような望月です。

 

美しい月を夜空に見つけると、それが三日月だろうが半月だろうが、もっと中途半端な形だろうが関係なく、心を動かされます。兼好法師が「花は盛りにばかり見るものではないし、月も満月ばかりが美しいのではない」というようなことを言っていますが、本当にそうですねと頷きたくなります。

そして、美しい月を見ると、「綺麗だな」と思うと同時に、夏目漱石の逸話が思い出されます。

 

漱石が教師をしていた頃の話です。英語の小説を翻訳していた時、ある学生が“I love you.”という文を、”我、汝を愛す”と訳しました。すると漱石が、そういう直球の表現は日本的ではないと指摘し、”月が綺麗ですね”とでもいえば、良識ある婦人なら通じるはずだ、というようなことを言ったとか。

 

この逸話を知った時、”愛す”という言葉が大胆すぎてそぐわないというのはわかるけど、なぜ漱石がそこで持ち出したのが”月”だったのだろう、と疑問に思いました。

その後、日本人は”愛す”にあたる言葉を直接的に用いるのを避け、恋情は月に託して歌うのが和歌の時代からの伝統であったことを知り、深く納得するとともに、浅学を恥じました。きっと私は漱石のこの授業に出ていても、全くついていけなかったに違いありません。

 

当時、”愛す”という言い方はあまりに直接的で、男性が言うにしてもかなり大胆なもの言いでした。まして、女性がそんなことを言おうものなら、慎みがなく、はしたない女だと思われるのは必定。

 

ロシア文学を翻訳していた二葉亭四迷も、この難問に苦しみました。男性から愛の告白を受けた女性が自分も愛していることを告げる場面で、どうしても女性のセリフが翻訳できなかったのです。そのまま訳してしまったら、本当はそうでないのに、この夫人があばずれであったと誤解されかねない。四迷が、何日も悩み続けて出した答えは、

 

「わたし、死んでもいいわ」

 

でした。味なものです。

 

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コメント: 3
  • #1

    凹太 (水曜日, 03 10月 2012 12:21)

    月を見て色々な事を考えるのですね。自分は最近月を見ていません、と言うより周りが明るすぎて良く見えないのです。さみしい事です。いつかまた月夜の白い浮雲、白くなった地面、また、波に煌めく月の光をゆったりと見てみたいものです。学校で習った漢詩に、寝る前に月光を見る、これ地上の霜かと、頭をあげて山月を望み、頭を垂れて故郷を思うというのがありました。たまにはこういう心のゆとりが欲しいです。夜は冷えます。月を見て風邪などひかぬように。

  • #2

    ボッコちゃん (水曜日, 03 10月 2012 23:41)

    お月様にウサギが住んでいると言うのは日本だけでしょうか。女の人の横顔が見えると言う国もあるとか。ここの国の人はどう見えるのでしょうか。今度聞いてみます。最近の歌は「愛している」とか「好き」とかストレートで私などは引いてしまいます。河野裕子さんの「たとえば君...」の歌はそういう言葉は出て来ませんがインパクトあります。もっとも短歌で愛とか恋とか言う言葉を安易に使ったら叱られそうですけど。

  • #3

    nana (土曜日, 20 10月 2012 23:09)

    コメントありがとうございます!
    凹太さんのおっしゃっていた漢詩を探してみましたが、ちょっと見つかりませんでした。私も読んでみたいので、今後も気を付けて探してみようと
    思います。とても気になります!

    ボッコちゃん、月は地域によって見方が違いますよね。アイヌでは桶を持った少年だとか。伝説も多くて面白いです。

    最近の歌に引いてしまうという気持ち、とてもよくわかります。いまだに「愛してる」は日本語になりきっていないというのが持論の私には、あれらはすべて異国語に聞こえます。
    『たとえば君…』は確かにそういう言葉をどこにも使っていませんし、もし使っていたら陳腐になっていたろうなと想像します。短歌や俳句の世界では特に「きれい」「いい」「好き」などの言葉を使わずに、その気持ちを表現してみせるところに醍醐味がある気がします。
    それにしても素敵な歌ですよね。さらってくれたならそのままさらわれもしよう、というニュアンスが軽妙ながら情熱的です。