昔の人を感じるとき

今年も早、年の瀬です。私も今日は、親戚の家でお餅つきをしてきました。

師走の空気にもうもうと白い湯気を立てる、蒸したもち米が臼へと入れられる様子や、最初はぐっぐっと体重をかけて潰しても粒が見えていたもち米が、搗く(餅をつくの「つく」はこの字らしい)うちに、ひとかたまりの滑らかなお餅になっていくのを見ているのも面白いものです。見ていることに気を取られ、ついついお餅をひっくり返すというお役目を忘れそうになってしまいます。

 

時折、冬のにおいのする風がざーっと吹いて、もち米のにおいがする湯気をさらって行きます。この寒い中で人が集まってお餅を搗き、新しい年を迎える準備をしている――昔とほとんど変わらない営みを、こうしてまた繰り返していることが不思議にも感じられます。

 

しかし、昔の人にとっては、今よりずっと年を越すことの意義やその思い入れは強かったのだろうと思います。(そういえば、昔はお正月は歳を取る日でもありましたね。)

無事に年を越せることを感謝し、家を隅々まで清め、古いものを処分し新しいものを下ろし、年神様へお供えをし、御馳走をこしらえて……。かの人々にとって「新年を祝う」ということはどれほど大きな意味を持っていたのでしょうか。

 

現代の私たちが、かの人たちと同じ気持ちでお正月を想うことは難しいでしょう。

けれど、こうしてお正月の準備をしていると、お正月飾りの松や竹の緑に、水引の凛とした直線に、そして御節作りに忙しい台所に…と、いたるところに厳粛ながらどこか浮き立った、昔の人の正月への想いや、往時の「祝い」の気配が残っている気がしてきます。

 

どんなに時代がすすみ、国際化しようとも、価値観が移っていっても、そういうものを感じられるうちは、私たちは日本人なのかもしれません。