天然酵母のパン

きつねいろ
きつねいろ

ドライイーストを使って手軽にパンを焼くこともありますが、天然酵母のパンも好きです。

たまに焼くのですが、市販品は使わず自分で酵母をおこすので、手間がかかります。

 

瓶にレーズンと水を入れておく→発酵し泡立ってくる→小麦粉を混ぜてさらに発酵→パン種ができる。手順としては簡単ですが、ここまでに2週間くらいかかります。

しかし、こうして自分で酵母を育てて(?)いると、妙に愛着がわいてくるから不思議です。研究者が自分の飼っている(?)菌やなんかに、愛称をつけたりする気持ちがわかります。 

 

さて、こうしてできた酵母をイーストの代わりに混ぜてパンを焼くのですが、気温などに左右されやすく、まだまだコツがつかめません。コンスタントにおいしいパンが焼けるようになるには、経験が足らないようです。それでも、酵母独特の風味のある、ずしりと重たいパンが出来上がります。

 

イーストより発酵に時間がかかるので、半日がかりになりますが、その分だけ美味しく焼けた時の喜びは大きいものです。焼きたてのパンはジャムやはちみつでなく、パターだけでも十二分においしい!熱くて触っていられないパンをなんとか割いて、バターや「KIRI」のクリームチーズをのせて食べると、幸福感がわいてきます。

香ばしいパンの香りが家じゅうに漂っている中で、オーブンから出したばかりのあつあつのパンをほおばる。「しあわせ」ってこういうものかもしれない、と思います。

 

 

そういえば、詩人の長田弘さんの『食卓一期一会』に出てくる詩(『イタリアの女が教えてくれたこと』)にもこんな一節があります。

 

  パンのみにあらずだなんて

  うそよ。

  パンをおいしく食べることが文化だわ。

  まずはパン、それからわたしはかんがえる。

 

 

初めて読んだ時も、そして今も、「そうか」と納得させられるものあります。「イタリアの女」のこの発言は、感覚的・直感的すぎるようでありながら、実に生活の中のパンというものを言い当てている気がするのです。ことばに嘘や飾りがないぶん、説得力もあります。

 

そうか、パンは人間の生活の基本なのか。そうか、パンにこそヨーロッパ文化の神髄があるのか……。

 

イタリアから今度は、無人島のロビンソンに思いを馳せます。

土を耕し、小麦を育て、粉にし、練って、焼く。島にただひとり、孤立無援の厳しい状況下で、長い時間と苦労の末にやっとパンを焼きあげたロビンソン。それを手にして彼はどんな感慨に浸ったことだろう。パンは文明の象徴とも捉えられよう。何もないところから、ひとりで文明を再現させたその瞬間、彼は間違いなく勝利者だったはずだ。ロビンソンがほおばり、噛みしめたものは、ただのパン以上のものだったに違いにない。ああ、いったいどんな味がしたのだろうか?

 

と、ここまで想像を広げたところで、はたと我に返りました。そもそも何の話だったのか。

そうそう、天然酵母のパンだった。

でもロビンソンの身になってパンを見つめたあとでは(もちろん想像の中で)、かなしいかな、私のパンはいかにも薄弱。それは仕方ありません、重みが、バックグラウンドが違うのです。

 

私は、深々と悟りました。

ロビンソンの偉大さを。

そして、ロビンソンの辛苦を思えば、天然酵母のパンの手間などなんでもないものなのだ、ということも。